板金加工業界
企業の存在意義や
経営の目的を明確にする
~ 「理念経営」を目指してみましょう ~
企業が目指すべきビジョン
『理念経営』(ビジョナリー経営)に取り組む板金企業が増えています。『理念経営』のゴールは、「全員が生き生きと働き、成長期にも危機にも強い、永続する会社」と言われています。
近年、企業の在り方として、企業の社会的責任や顧客満足、従業員満足などが求められるようになって、企業は単に利益を上げるだけではなく、コンプライアンスを順守し、環境や社会に配慮し、顧客やステークホルダーに対する姿勢を明らかにすることが必要になっています。そのためには、企業の存在意義や経営の目的を明確にする“経営理念”が求められ、経営理念を重視する経営手法である『理念経営』を目指す経営者が増えているともいえます。めまぐるしい環境変化と社長交代によって、経営トップが創業者から2代目へ、2代目から3代目へと継承される企業が増えていることも影響していると思われます。
“経営理念”には「企業の方向性」「従業員の行動規範」「社風の良質化」「社会への貢献」などが含まれており、企業が目指すべきビジョンを示唆します。そのため“経営理念”を策定する際に経営者は、勉強会に出て知識を吸収したり、外部コンサルタントを招いて「想い」の具現化を示す言葉や表現の仕方を学んだり、様々な経営書などを読みすすめたりして、自社に相応しい理念を考えています。
経営者の独りよがりは止める
ところが、往々にして陥りやすいのが、「せっかくつくった“経営理念”が独り相撲の言葉遊びになってしまうことがある」―。ある経営者の反省の弁です。経営者は真剣で、「遊び」という意識は全くありません。しかし、従業員は日々の仕事に追われ、実作業だけで目一杯、「仕事に取り組む気概」も持てないのが実情でした。
そんな状況の中、社長から突然、“経営理念”を聞かされ、遵守することが求められても、従業員からすれば、日々の仕事の公平さ、計画性の重要さなどの問題を解決しないまま、社長が独りで策定した“経営理念”など、現実と乖離した雲の上の話のように聞こえてしまうのも無理はありません。そしてこれが「この社長にはついていけない」「社長は何にもわかっていない」という気持ちを従業員に持たせてしまう要因にさせてしまうことになります。
過去に取材させていただいたこのお客さまの場合も、創業者である父から経営を任されたときに、従業員の大半がモノづくりに対する誇りを持てず、やる気をなくしている実態を見て愕然とされたということです。そこで、社長方針として“経営理念”を発表し、毎朝の朝礼でそれを従業員全員で唱和することにしたそうです。
傍から見ると、この会社は、経営者も従業員も同じ意識をもって仕事に取り組んでいて素晴らしい、と言えるのかもしれません。ところが、大半の従業員には、何のための理念かも理解されず、唱和される言葉だけが空回り、社長独りが取り残された状態になっていきました。
社員にプライドをもたせる
この状況を打開するために、この経営者は改めて中堅幹部社員を集め、「従業員の抱える問題を聞くようになった」とおっしゃっていました。社長の独りよがりを改め、従業員一人ひとりと面談して、仕事への想いや会社への期待などをヒアリングされたそうです。そのなかで、多くの従業員が日々の仕事に気概を持って取り組んでおらず、成り行きや惰性で働いていたことが分かったということでした。
そこで、自分たちが製作した製品が、社会のどんなところで使われているのか、お客さまの工場などを見学させていただき、自分たちがつくった部品や製品が、カタチを変え、商品として店頭に並んだり、大きな機械の一部として重要な働きをしたりしていることを確認し、自分たちの仕事にプライドを持たせるようにされました。その結果従業員は、自分たちの仕事が社会に役立っていることの価値を認識するようになり、それからは従業員たちが働く目的や会社が目指すべき方向性などを理解するようになったとおっしゃっていました。
こうした過程を経て、社内に「理念委員会」を発足させ、半年をかけ、会社はどのような考え方で活動を行っていくのか、従業員がどのような気概を持って仕事に従事していかなければいけないか、“経営理念”としてまとめていったということです。
創業者から事業承継された
2代目の苦労
また、10数年前に2代目社長に就任された経営者は、大学卒業後は大手企業を経て2000年に入社、今は脂の乗った経営者になられています。しかし、社長就任後は会長の薫陶(くんとう)を受けて育ってきた社員が多く、自分の考えをすんなりとは聞いてもらえずに経営の舵取りに苦労したとおっしゃっていました。その時に社長が取り組んだのが、経営講習会で学んだ「理念経営」。
社長就任当時に社是・企業理念・行動規範・ビジョン・社史などを整理した冊子を編さんして全社員に配布されました。それまでも社是や企業理念はありましたが、行動規範やビジョンは盛り込まれていなかったようです。そこで会社の沿革をさかのぼって、創業者が目指してきた企業理念、そして代替わりした2代目社長が目指す近未来のあるべき会社の姿を言葉で表現するとともに、社長自身も会社を知るために日々努力をされました。
近未来のあるべき姿を示す
こうした努力を重ねることで、当初は「社長の言っていることは理解できない」「社長の話は難しい」と避けていた社員たちも、次第に社長の話に耳を傾けるようになっていったということです。併せて公共展にも積極的に参加し、社員に交代でブース担当として来場者対応を経験してもらい、外部のお客さまから自分たちの会社がどのように評価されているのかを知ることで、「自分たちの会社が何を目指しているのか」「何を評価されて仕事をいただいているのか」「これからはどんな会社に生まれ変わっていかなければならないのか」「仕事を継続的に受注するにはどう変わらなければいけないのか」―など、お客さまの生の声を聞く機会をつくっていきました。
目指す目的や価値観を共有
社長が明確な方向性を示したことで、幹部から社員へと着実に理念が浸透し、社内での意識改革も進んでいきました。そして、自分たちが目指す目的や価値観を共有することで「もっとやろう」と切磋琢磨し合い、社員全員の力を結集できるようになっていきました。そして社長から新入社員まで全員が、互いに自分たちの「もっとやろう」を追求する経営が徐々に実現していったということです。その結果、同社では社員が自分の友人に自社のすばらしさをPRすることにより、口コミで同社の社風が広まり、求人活動に際しても苦労はしなくなったといいます。
日本企業の多くは、古くから「信頼第一」「三方よし」「先義後利」など、利益第一よりも取引先との「義」を重んじてきました。この会社も『経営理念』を時々見直しては、時代に相応しい文言に書き換えています。今は、最終ゴールである「日本一の中小企業を目指す」ために、品質を第一に掲げ、品質で日本一を目指そうとしています。日本一になるためには、モノづくりで日本一を目指さなければいけません。そのためには社員のスキルアップを目指すとともに、社員のモラル、マナー、モチベーションに関しても日本一を目指そうとされています。
日本の現場作業者にはもともと、前後の工程に目配りしながら思いやりを持って仕事のバトンリレーができる能力があり、その長所を伸ばしつつ、トップが“経営理念”を明確にして、それをあらゆる機会を通じて社員に徹底していくことが重要となっています。『理念経営』が徹底されている企業では、日常業務での優先順位がはっきりとしているため、従業員ごとに判断や行動がぶれることが少なく、社内の意思決定でも、共有する価値観が判断基準になるため、決定までの時間が早くなるなど、スムーズな経営が可能になっています。
ナサ工業(株)の成功事例
福岡県にあるナサ工業株式会社(福岡県粕屋郡須恵町、長澤貢多社長)は、2代目社長が事業承継を円滑に進めるために行きついた『理念経営』です。
長澤社長は大学では建築学科に学び、大学院卒業後に大手住宅メーカーに入社、1級建築士の資格も取得されましたが、31歳で同社に入社、38歳で2代目社長に就任されました。事業承継は先代から1年前に打診され、「社長を引き受けるからには全責任を取る決意で、引き受けた」とおっしゃっています。
就任当初は意気込んで、前職の環境との比較ばかりをし、足りないものは次々と導入を試みました。その結果、業績は上がっていきました。ところが、それとは裏腹に、社内からは「もう社長についていくのは疲れた」という声が聞こえてきたといいます。
長澤貢多社長
理念が曖昧だと目標が作れない
「結局は独りよがりだったのです。今まで培われてきた社風や企業文化、歴史など、私が目を向けていなかった部分に答えはありました。それまで社会に用いられてきたことには、当然理由があったわけです。そこに目を向け、自らがその土台の上で何をすべきなのか熟考し、その延長線上で次第に「理念」が確立していきました。目的・理念が曖昧なままでは、達成すべき目標はつくれません。そして行き着いたのが、「人を活かすこと、周囲の人間が活きること」という考えだった」(長澤社長)。
この理念に即して「社員を活かす」ことを考え、「理念BOOK」という冊子をまとめられました。
そこには「会社とは『社員の幸せを実現する器』であり『ここで一生を過ごせて良かったと思える場所』であるべきと考え、仕事を『報酬に対する役務』ではなく『心を磨き高めるための任務』と捉え、スタッフが仕事を通じて自己を磨きながら充実した人生を築いていける場所にする。会社はそれを全面的にサポートしようと考えました。それによって、社是・企業理念・行動規範・ビジョン・社史などを整理・統合し、理念体系を社員に提示することができました」(長澤社長)と記されていました。
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「背骨ともいえる軸が形成されたことで、判断基準が明確になっただけでなく、これまで断片的に行っていた施策が理念・目的として有機的につながり、意義ある活動として発展していき、「ナサ工業は『日本で最も憧れられる会社』を目指そう」という声が社員から上がってきました。やっと会社の理念・ビジョンと社員のビジョンを一致させることができたのだと思います」(長澤社長)。
2018年に企業主導型保育園
「ナサの森保育園」を開園
同社は2018年10月、本社隣接地に企業主導型保育園「ナサの森保育園」を開園。2019年10月に創業50周年を迎えた記念事業の一環として、従業員の子育て支援を充実させるとともに、自治体とも連携し、地域の児童も受け入れています。園舎は、同社で製作された金属の出窓が目立つ2階建てで、2階には地域住民との交流にも活用できる多目的ホールが設けられています。理事長には長澤貢多社長が就任し、実務は開園当初外部委託でしたが、2021年4月から自社で直接運営されています。
この取り組みは「会社は社員の幸せを実現する器」と考えておられる長澤社長ならではの発想。2016年度から始まった「企業主導型保育事業」を活用した保育園の開園は、板金業界では初めての試みとして注目を集めました。
ナサの森保育園
「社員満足度100%」をはじめとしたビジョンの実現に向け、数多くの取り組みを実施している長澤社長に『理念経営』を実践しているという意気込みは余り感じませんが、社内でのコミュニケーションの質が高まり、意思決定が劇的に速まっているそうです。新規事業や新たな施策に対して柔軟に対応できるだけではなく、そこに対する疑い・迷いがなくなったことで、業績も右肩上がりに推移し、生産性も120%増を果たすなど、大きな変化が起きています。
「経営者自身が願望を明確にし、公明正大に求め続けたからだと思います。自らの願望を明確化し、理念に落とし込んだからこそ、幹部やリーダー層が力を貸してくれ、組織変革が進んでいる。理念という軸が、私と社員をつなぎ、揺るぎない絆をつくったのだと思います」。長澤社長の言葉が『理念経営』の効果を言い尽くしているかのようです。
記事:マシニスト出版